白鬚大明神縁起 上巻

(詞書第一段)
 夫、衆生の根機まちまちなるゆへに、西天の大聖人、応縁又さまさまにして、或は三乗と現し、又は八部と化し、十方世界、所として化度の至らさる事はあらねと、わきて我日本の国には、千早振神の御かたちをあれます事、他の国にかつてきかぬ、不可思議廣太の利益也。こゝに近江国志賀郡、白鬚明神と申は、往昔、天照大神の勅をうけて、皇孫天津彦々火瓊々杵尊、天降まします時、先駆の神立帰り、一の神、天のやちまたにおれり。其鼻長七咫、背丈七尋、亦口もかくれ所も赤くてれり。眼は八咫の鏡をかけたらんやうにてりかゝやく事、赤かゝちに似たり、と申しぬ。八十万神達も、目勝て尋とふ事あたはさりしを、天鈿女尊におほせてとはしめ給ふにそ、はしめて猿田彦大神と名のり、尊の天降ましますをむかへ奉りぬ、と申給ひぬ。それより皇孫は、筑紫の日向の高千穂?觸の峯に到り、猿田彦神は、伊勢狭長田の五十鈴の川上にわかれ給ひぬ。

(詞書第二段)
 纏向珠城の宮にゐます、活目入彦五十狭茅天皇、天の下しろしめす廿五年に、倭姫命、伊勢の国にいまして、よき宮所もとめさせ給ふ時、猿田彦大神にあひ給ひけれは、言壽覚しての給はく。南の大峯によき宮所あり。佐古久志呂宇遲の五十鈴の川上は大八洲の内にめてたき所也。翁が世に出侍りしより、二百八万余歳のさきにも、みしらさるあやしき物、てりかゝやく事大日輪のことし。これなんおほろけの物にましまさし、定めて主出まさむ、とおもひ給ふ、と語り給ひぬ。倭姫命、ことはりいちしろし。是なんそのかみ、天地の御祖尊に、神漏岐・神漏美命、豊あしはら瑞穂の国の国内に、伊勢加佐波夜の国はよき宮所也。と見そなはし給て、天上よりして投降し給ひし天の逆太刀・天の逆鉾・大小の金鈴五十口、日の小宮圖形文形等これなり。天の平手をうち、悦給ひて、此処に日小宮を遷し造り給ふとかや。

(詞書第三段)
 猿田彦神、或時斎の内親王、神主部・物忌等にさとし給はく。凡、天地開闢の事は、聖人の述る所也。其初遠くして、其理いひかたし。願はくは、尓もろもろ聞給へ。吾は是、天下の土君なれは、国底立神と名つく。吾は是、時に応し機にしたがひて化生出現しつれは、気神と名つく。吾は亦、根国底国より荒備疎備来らん物に相したがひ、守護となるゆへに、鬼神と名つく。吾は復、人の為に寿福を授与るゆへに、大田神と名つく。吾は、よく人の魂魄をかへすゆへに興玉神と名つく。ことことくをのつからの名也。物皆いちしるしあり。我ことをへぬ、かくれさらむ。との給ふ。つたへきく、如来十万の御名、帝釈一千の名号も、各、其徳にしたかひ名つくなり。猿田彦の御名も、よも此ほとには限らし。なれと、おほくの中に少はかりを述て、しはらく狭長田の五十鈴の川上を神去し給はむとの御慮なるへし。

(詞書第四段)
 それよりして、国々地々をみて、近江国に至りましぬ。その国に大きなる湖あり。嵩嶺神山、四辺に圍饒し、まき柀のはのうくかことく、まことに??ひ、ほとんと凡境にあらされは、大神、此所にめて、小艇を造り、釣をたれあそひたまふだに、吾此湖の三度桑原となれるをみし、となむかたり給ぬ。

(詞書第五段)
 土俗、其神霊を祠りて、神社をたつ。老翁の貌を現し給へは、白鬚の神と申ぬ。亦比良の神と申は、かの山のふもとに跡を垂たまへはなり。浄御原天皇、殊に尊崇したまひ、叢祠を増造り給へり。



(詞書第六段)

 聖武天皇、東大寺を建立いたし、一丈六尺なる盧遮那仏の銅像をつくらせ給ふに、此時、我国いまた黄金なかりしゆへ、帝、僧正良辨に和刕金峯山は、其地皆黄金也。金剛蔵王ほさちに祈り、金をもとめ、銅像の落をたすけよ。とみことのりし給ふゆへ、僧正、彼山に登、祈念し給ふに、金剛蔵王、夢中に、此山の黄金は、弥勒出世の時、大地にしかむ為なれは、みつからほしいまゝにしかたし。江州、湖の南の勢多といふ所に、一の山あり。汝、彼にいたり持念せば、必黄金を得む。と告給ふにまかせて、勢多に趣きぬるに、老翁一人、巨石のうへに座して釣たるゝあり。其のかたち凡人とみへさりけれは、僧正、何人と尋られしに、我は此山の主、比良明神也。此地は如意輪観音霊応の地そかし。爰にして祈念せば、汝か願、はやく成就すへし。と告て、たちまちみへすなりぬ。其石の傍に、草の盧をむすひ、観音の像を安置す。石山寺是也。かくして程なく陸奥国より、金を貢調に奉りし。是しかしなから蔵王の擁護、観音の霊応のみに限らす。当社明神も加助のちからをそへ給ふゆへ也。されはこそ、明神も人に福をさつくれは、大田神と名付と告給ふらめ。有難き事にあらすや。此時の事にや、中納言家持卿の哥に
  皇の御代さかへむと東なる陸奥山にこかね花さく、となむよまれし、古万葉集に入。

(詞書第七段)
 又、いつの時にか現形し給ひけん。比叡山横川にも明神釣垂岩とてあり。亦、もとより社の前にも巨石ありて、其釣垂し時、坐し給ふ跡とて、今にのこれり。



(詞書第八段)
 叡山第一座主、修禅院義眞和尚の弟子に、法勢と申人いまそかりけり。承和八年、比良山の麓、和邇の村を過とて、あやしの家に宿をかられし。其婦、俄にくるひて、観音経をよみ給へ我きかん、と申。観音経を持し侍れと、狂人の言とおもひ、経をもたされはよむ事あたはし、と答しに、臂に掛し袋の中に有ものを、と申せは、おとろきあやしみ読経せしに、婦人掌をあはせ、我は是、比良神也、と申せしかは、法勢、いつれの神明も皆、通力をそなへたまふうへに、比良神はわきて寿長きよしなれは、定めて釈迦大師、西天に出世し給ふに逢給ひぬらん、と尋られしに、我は天竺にゆかす。されとも千数百年の前にかや、諸天おほく西の方に飛去ぬ。さためて釈迦出世の時ならん。と告給ひぬ。古仏菩薩の応迹、なんそ釈迦の出世をしり給はさらん。なれとも仮に不知の相を顕はし、観音経を聞たまふらめ。何かしの神の、衣を乞得給ひしにもかはらさる事よ。いまに毎歳、山門の僧侶を請し、法華八講を開演すれは、神慮さこそうれしとおほしめさめと、おもほゆる事にこそ。

(詞書第九段)
 此神に限らしなれど、天下の変異あらん時は、妖恠をしめして、人につゝしましめ給ふとにや。康安元年、社の前に二町余の石橋あらはれ、永禄五年、一町程沖に石の神門あらはる。まことにあやしの事也。

白鬚大明神縁起 下巻

(詞書第十段)
 将軍家にも渇仰し給ふ事多き中に、光源院贈左府義輝公、弘治三年、当社に御参詣いませしとかや。

(詞書第十一段)
 それのみならす、御弟霊陽院権大納言義昭卿、武運のおとろへゆくをかなしみ、江州の諸社に、源氏の系図をかきておさめたまひし。徳大寺内府公維公、其頃は権大納言にていませしにかかしめ給て、當社におさめたまひぬ。諸社の威力むなしからす。武士の八十氏のかたかたにわかれゆけと、其源の氏、千五百秋のすえまてたえやらしと、まことにあふきても、なをあまりあることにこそ。

(詞書第十二段)
 武将の帰崇のみならす、ちかきころ、當国をしる佐々木家にも、わきて當社を恭敬せり。天文九年、管領義賢、そのかみ五十鈴の川より影響のことをおもひてにや、社の上に伊勢の内外宮をたて、側に天の巌戸をうつし、亦、八幡・賀茂・高良三社をも造りぬ。八幡・賀茂は源家のたとむへき神明。高良又竹内宿祢とて、三百余歳のよはひをたもちし人なれはにや。

(詞書第十三段)
 廿二年二月先妣の為とて、石仏の阿弥陀四十八躰を彫刻して、社近き所にをく。今、其前に庵あり、摂取庵と名付く。

(詞書第十四段)
 廿三年、後冷泉院永承四年に、天下の神社に仏舎利一粒宛納むといへる舊記を見て、江陽の神社を点検せしに、さはかりの社にも、多くは失侍りて、日吉、白鬚など、わつか十三社ならては残り侍らさりしとなむ。貞太乃叡信よりことおこりなからも数百歳を経るまて、仏舎利亡失せさる、誠に希有の事とそ。

(詞書第十五段)
 佐々木氏領する比は、度々の造営ありしに、彼家衰微せしかは、をのつからあれ行しに、慶長八年、浅井備前守長政女此神を渇仰、あらたに造立して舊観に復しぬ。いまの御社是也。

(詞書第十六段)
 往昔、明神のもたせ給へる鉢、社の前にありしか、をのつから往還の舩にそひて、勧進せしに、いつの時にか、大津より海津へ行舩にそひ行くに、今はさゝくへき物なし。大津へゆかむ折、必まいらすへし、と申てさりぬ。かくして、大津へもとる折、例のことく鉢うき来りけれは、鉢にあまるほど奉才を施しぬれと、いかなるゆへにや、沈みもやらす、立さりもせてつきそひしに、舩人、かほとまて奉るに、猶あきたらせ給はぬか、と嘲り、あまつさへ竿をもて鉢をつゝきのけしに、大津へもとるとおもへと、露はかりも立さらで、其傍の石につなきとめたらむやうにて、一七日を経しかは、其巌を七日岩と申す。それにもなをあきたらす給はさりけん、上の谷に、舩を誰おすともなくておしあけて、くたきわれ侍りぬ。其所を舩引谷と申程に、今、其谷の中に、くさりし舩板なとやうのもの、ほり出すとや。是も凡夫の貧瞋のことくにはあらねと、ふかき利益ある事をかむかみて、かくこらしめ給ふならし。牛羊のまなこにては評量しかたき事なり。

(詞書第十七段)
 山の後にあたりて、頂法寺と申大伽藍あり。其寺僧、毎歳正月、社のうへの岩上に坐して、法施を献す。今に、経岩と名付く。





(詞書第十八段)

 をりふしことに龍灯うかひ来り、社の傍の松にうつりて、内陣にいれは、社内震動す。まことに霊瑞なり。近き頃もみし人多く、また宮つこ、土器に油を入、よなよな灯をとほし、きゆるをまゝにいたすよのつね暁まて侍るに、油をくはえねとたれかゝくともなく、昼夜二三日はかり、消もやらぬ事、あまたゝひなり。

          寶永二乙酉暦陽中下旬     吉原重好画之(印)